明治新政府の断行した廃仏毀釈・その主たる目的は神仏分離政策による、仏教排斥運動そして、その具体的な処置として本山を中心としての規模の縮小であり無住の寺院の廃寺でありました。
建仁寺領も四分の一程度に縮小を余儀なくされました。
当時、永源庵は運悪く無住であった為即刻廃寺となったのです。ところが永源庵は本山の真北にあった為、その堂宇の取り壊しは免れその地に本山の北東に隔ててあった正伝院が移ってきたのです。そうして寺名も「正伝院」と変えられました。
それが明治六年のことでありますが詳細はそれ以後の経緯を知る資料が当院はもとより本山にさえも残っておらずそれがかえって当時の運動の激しさを物語っています。
ただ断片的な資料のいくつかを繋いでみると 「永源庵」は細川家の始祖細川頼有および以後、八代の菩提寺であり、数多くの菩提寺の中最も大切な寺でありましたが、廃仏毀釈運動により一時霊牌等を一切引き取り、それまでの関係を整理しましたが「永源」の名が消えることを憂いだ時の細川侯爵は「永源」の名を残すことを希望され「正伝永源院」となりました。
京都府京都市東山区大和大路通四条下る四丁目 小松町586 正伝永源院